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昭和五十七年七月八日 朝の御理解
御理解 第七十九節
「商売をするなら買場売場と言うて元を仕込む所と売先とを大事 にせよ人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ目先は弐銭損 のようでも安うすれば数が売れるから矢張り其の方が得ぢゃ身 体はちびるものでないから働くがよい」
四日の神愛会に今、本部御用頂とります淵上先生が帰りがけに、私の所へやってまいりまして、信楽を持ってまいりました。今、あちらで、教学研究所へ勤めておるんです。
して今度、新たに教祖様のみ教えが沢山あります。それを、ま、一つ一つ勉強、研究させて頂いとるわけですが、中に三備州という事が教祖のお言葉のなか、それがどんなに考えてもわからん、どういう意味なのかは、ね。三備州と、三つの備、ね。どういう事、して、この信楽を見せて頂いとりましたら、親先生のお言葉の中に、ここに、こうのうがありますよね。
不断の信心と、実は、これは私も、どんなに考えても判らなかったんです、意味が。上に限りなきおかげですか。限りなきおかげと、この不断の信心と、下にこう小さく備中・備前・備後と書いてあるんです。これを、その淵上先生が見てから、ははあ これが あの教祖様がおっしゃる、三備州の答えだなと思ったから、意味を聞きにきたんです、ね。三備州というのは、この事だろうと、三つの備前・備後ですかね備中と。しかも。それが限りなきおかげと、不断の信心と、この三つの、この事がどういう事なのか、私も、確かにこれは御理解頂いた事でしょうけども、わからん。
昨日、その、研修の時にその事を申しましたら、あの、竹内先生が、うちの若先生が、それは説明しておられましたよ、と言うんです。どういうふうに説明しとったか、ち、言うてから。それはね、信心の前後、ね。又は、只今、一つのおかげの只今真ん中、と言う、いう事ですね。おかげを受けるという、その前と中は、勿論大事にしなきゃならんけれども、おかげ頂いた後を備えておかなければ、備というのは、そなえる、とある。はあ そうじゃった、そういやぁそういう御理解頂いた事があった。成程、これが出来るならば限りない、上に書いてある限りないおかげにつながるだろう。結局、これが、ね、不断の信心にならなければならん、と言う意味だったんです。
あヽ、今度、淵上先生が来たら、そういう説明がしてやれるなと、私は思ったんですけれどもね。いうならば、限りないおかげには、不断の信心が、いわゆる、生まず、たえまず、の信心がいるんです。おかげをうける時だけは、一生懸命、おかげ頂いたら、ぷつっんと信心を落としてしまう、というような人がありますがね。構えが信心にはいるんだ、と。これは、限りないおかげにつながる為に、不断の信心、という事を頂いたのですけれども、今日の御理解をいただきますと、まあ 商売に対する、ま、お道の信心で言う心がけ、というものを教祖は教えておられるのですが、ね。いわゆる、売り場、買い場とこうおっしゃる。儲かりさえすればよい、お客さんだけが喜んでもらえばよい、というだけぢゃいかん、ね。
それを仕込む仕入れ先の、いうならば、ね。今日の備前・備中・備後が大切にしなきゃならん、という意味にも通ずるわけですな。
ただ、もう、売りさえすればよい、あとは、というものではいかん。もう売ったら、その、いうならば、ある時に頂いた御理解でしたけども、品物を売る時に、本当に可愛い娘を嫁にやる時のような気持ちで、どうぞ先で娘が可愛がられますように、先でお役に立ちますように、という祈りをこめるように、その商品にもです、どうぞ、お客さんに買い取っていただいたならば、それが、どうぞお客さんによろこんで頂いてお役にたちますように、と娘を嫁にやる時のような気持ち、とこう言われる、ね。
仕入れをする時には、養子息子をもらう時のような気持ちと頂いたことがありますが、そういう、いうならば、前も中も後も大事にしていく、そういう信心を不断の信心。それには、もう、限りないおかげが伴う、と。
皆さんも判らなかったでしょ、これ。限りないおかげと、不断の信心と大きく書いて、下にその、備前・備後・備中と下に書いてある。何の意味かさっぱり判らなかった。けども、昨日、研修の時に、それを、ま、わからせて頂いたんですけれども。
昨日、久留米の佐田さんがお届けをなさいますのに、ここ二、三日、も、大変難しい御理解を頂いております。神を杖につけば楽ぢゃ、という事のギリギリの、本当に神を杖に2、と言う事は、ね、兎に角、立教神伝を受けて、それを行じるような心がけ、というふうに、ま、いわれるわけです、ね。神様は、あヽおっしゃるけども、そんなわけにはいかん、というのではなくて、ね。で、そんな事を思いながら、この信楽を開かせて頂いた。そしたら、なんと、ね、自分を生かして神を殺すか、ね。自分を生かして神を殺すか、自分を殺して神を生かすか、ね。
自分というものを、むなしゅうするところに、神様が生きて下さる。自分というものを、自分中心に、自分を生かして神様を半死半生にしたり、殺したりする事になるぞ、と言う。もう、本当に恐れいってしまいました、という、昨日、お届けがございました。信心を極めていくと、そこに至っていくのです。
不断の信心の内容は、そういうところをめざして行くのです。
これも昨日、行橋の堀内さんが、丁度昨日の、丁度あちらから、信行に通って来ておりますが、御祈念中に、親先生のお部屋から出棺しよる、お棺が出て行きよるところを御心眼に頂いた、とこう言うのです。はあ そんなら私が死ぬる事やろかと、全くそうである。もう、日々、自分というものを出棺しておる。いつも、日々、自分というものを空しうしていく、そこに神様が生々と生きて下さる、そういういみであろうね、と言うて、ま、申しましたことですが。信心は日に日に生きるが信心なり、という事は、日に日に死ぬるが信心なり、という事も言えるのです。
だから、新しい命が、また、新しい信心が生まれるのです、ね。
そういう信心を目指しませんと、いわゆる、いうならば、そういう信心が芯になっての、不断の信心でなからなきゃならん。限りないおかげを頂く事のために。だから、神様から頂く、ということは、また、神様がお知らせくださるという事は、そこに、大変な意義をもつものである、という事を、もっともっと深く、重く頂かなきゃならん。
これは昨日、楽の御用を頂いておる前田さんから、電話がかかってまいりました。親先生おかげを頂いてから、おかげいただいたと。娘婿達に、兎に角、信心を、ま、いろんな問題が沢山ありますので、信心によっておかげを頂けと、申しますけれども、一向、心を神様に向けませんけれども、おかげで娘から、泣き泣き電話がかかってきました、ね。ここに神様にすがらなければ、神様のおまもりを頂かなければ出来ん事がわかったろう、と言うて、ま、申しました、と言うのです。と言うのは、ね、私が、このおしめりがあり出した時に、おしめりのお礼を申さして頂いておったら、そのおしめりの為に困る人もある、ね。また、おしめりの為に、あの高ぼくりが欠げたという、ね。心の欠げた人が、そのくりっとして転んだりすべったりするような事があるから、ただおしめりがある事を有難い有難いと御礼申しあげる、ぢゃなくて、そのおしめりの為に、おかげをおとすような氏子がないように、と言うて願え、という御理解を頂いたのが昨日でしたかね。
そして昨日、前田さんからのお電話でした。というには、娘婿になるのが、ある会社に勤めておって、ま、同僚と一緒に、ま、社用でどっかでたんでしょう。いつも自分の車に乗ってるんだけども、社用だからというので、会社の車に乗って行った。そして、ま、帰りに飲んで来たのでしょ。それで飲酒運転で、どこにか、えらい激突して、もう、自動車も、もう、メチャクチャになったそうですが、のっておる者は、自分は、も、血みどろになって帰って来たそうです。それで、もう、すぐ病院に連れてまいりましたら、その、外傷の傷だけであって、もう、中はレントゲンをかけたけども、何ともなかった、と。また、会社の方からは、ま、社用で行ってるのだから、それは社の方の保険でいいから、また、警察にも言うたら、免許停止になるといかんから、もう、警察にも言わず、ま、お金もかからんですむ。本当に、いつも、自分の車であったら、それこそ、そういうお繰り合わせの中に、おかげを頂いてというお礼でした。私が、その朝、皆さんに聞いて頂いた。兎に角、ね、おしめりで、ただ喜んでるだけぢゃいかん、おしめりの為にスリップして、いうならば、それに飲酒運転も加わって、いわゆる、激突して自動車がこわれた、と。けども、そういう事であったけれども、いうなら、もちろん、血みどろで帰って来たから、ま、随分いろいろ、か、と思ったら、医者に行ってレントゲン撮ったら、頭にも身体にも異常はなかった。ただ、外傷、また勿論、あくる日から勤める事もできるようなおかげを頂いたという、前田さんの電話でした、ね。
だから、神様から頂いたという事は、そういう間違いのない事なんですよ。頂く事は。だから、それを、ね、良い事、悪い事につけてでございますから、そういう、例えば、なら、合楽で皆さん祈りの中にあるのです。
だからどうぞ、なら、ね、売場、買場を大切にせよと、教祖がおっしゃるのだから、それを本気で、売場、買場を大切にする。それを御理念に基づいておかげを頂かしてもらう、ね、その内容がです、私共は、日に日に更なおかげを頂く事の為に、いわゆる、自分を殺して、神様を生かす手立て、それを自分だけを生かそうとするから、神様が半死半生になったり、神様を殺す事になる。自分を生かして神を殺すか、ね。自分を殺して神を生かすか。自分を生かして神を殺す事になる。自分を殺す事によって、神を十二分にお働きを頂く事が出来る、ね。それには、そいう信心内容というものが、段々出来てこなんと同時に、結局、不断の信心、かぎりないおかげの為に、それには、ね、備前・備中・備後の信心が身についてこなきゃならん、ね。しかも、神様から頂く、なら昨日、堀内さんが頂いたという、私の部屋からお棺が出棺されておったという、これは、私の信心で、日々自分という者を空しゅうしていく。だから、新たな信心が、また生まれて、新たなおかげの世界に住む事ができるのである、ね。前・中・後、ね、それを大切に出来る、おかげ頂くまで頑張るというのでなくて、おかげ頂いた後を大切にしなきゃいけない、というような意味で。
今日は、私は、その今日の、これは、ま、商売に対する御理解ですけれども、売り場、買い場という、例えば、儲かりさえすればよい、ただ、お客さんだけぢゃない、ね、それを仕入れる仕入先の方も喜んでもらえる、いうなら、後先を大事にせなならんというところから、ここの、信楽の中にある不断の信心という事を聞いて頂いたんです。 「 どうぞ 」